張希毅(東京外国語大学大学院博士課程)

多言語演劇と『ザ・ワールド』を「読む」

本稿では、多言語演劇『ザ・ワールド』を通して、現代社会における多様性と言語の問題を詳細に考察する。作品の革新性を評価しつつ、多言語演劇という形式が内包する課題にも目を向け、今後の発展可能性を探る。また、個人的な経験と学術的視点を交えながら、この作品が提起する重要な問いについて深く掘り下げていく。

はじめに

 私は大学院で、近代日本の文芸表象を勉強・研究している。研究対象は多岐にわたり、夏目漱石や大江健三郎といったいわゆる「国民作家」から、リービ・英雄のような現代のマイノリティ、越境文学の作家たちの作品まで幅広く扱っている。最近では、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』における多言語演劇とジェンダーの表象についての論文も執筆した。私が所属する東京外国語大学の大学院やゼミには、世界各国からの留学生が多く在籍している。この多言語環境で日々学び、研究を進める中で、常に念頭に置いているのが、普遍性と特殊性、そして多様性の問題である。これらのテーマは、私の研究の核心を成すものであり、今回の『ザ・ワールド』という作品を通じて、さらに深い洞察を得る機会となった。

 友人の誘いで鑑賞した「ザ・ワールド」は、多様性という問題についてさらに考えを深める貴重な契機となった。この劇に携わるすべての方々に、心からの感謝の意を表したいと思う。以下では、多言語演劇という形式と今回の演劇体験から得た洞察を基に、多様性という問題について詳しく考察していく。

多言語演劇の可能性と課題

 昨今、多言語演劇という様式が議論の的になっているとのことである。多言語という形式は、ある意味で、多国籍資本とグローバリゼーションの時代のイデオロギーを反映しているという指摘は興味深い。個人的には、かなり危険な様式であり、むやみに肯定すべきものではないと考えているとのことだ。そもそも、多文化共生を訴える多言語演劇が成立する要件は、俳優たちが言語の境界線を越えるパフォーマンスをする前に、すでに、セリフと台本を熟知し、暗記する必要があるという点は重要である。つまり、理解する先に、すでに理解したということになる。言語的越境を演劇の現場で起こす前に、すでに越境したことが要求されているのだ。しかし、もし事前に相手のことを知っていれば、知ろうとする必要も自然に解消されるという指摘は鋭い。この自家撞着的な性格により、多言語演劇は多文化共生を訴えると同時に、他者との共生の難しさや、ある種の虚構性も同時に浮き彫りにしているという。多言語演劇における多文化共生の表象は、ある意味で、完全には実現し得ないユートピア的な理想として観客に提示されているとも言えるだろう。

 ただし、この特性は必ずしもネガティブなものではないという点も重要である。むしろ、現実における他者理解の複雑さを舞台上で表現し、観客に深い思索を促す機会となり得るのだ。マイノリティやサバルタンの経験を単純化せずに、その複雑さや多面性を丁寧に描き出すことが、多言語演劇の重要な役割の一つとなるだろう。

 「ザ・ワールド」というタイトルが示唆するように、この劇は現代世界の一つの隠喩として機能しているという。作品中には、視覚障害のある俳優が同性愛者を演じるなど、性的マイノリティや障害者への関心が明確に表れており、社会の多元性がより一層前景化されているとのことだ。  興味深いのは、ミュージカル形式を採用しているこの劇の最後の歌詞「人は孤独な島の主」が示唆する点だという。この劇は普遍的な社会現実を描くというよりも、様々な心的問題を抱える複数のキャラクターの個人的な経験に焦点を当てているとのことである。このアプローチは、大きな社会問題を個人の視点から描き出すという意味で、非常に効果的だと言えるだろう。

 登場人物たちの葛藤の根源は、「複雑なアジアの人間関係」という設定にあるという。例えば、リブは父との不和から家を飛び出し、バーに住み込んでスズコという名前で働いている。リツとイブの争いは、リツが日本の家族に同性の恋人イブを紹介することを拒否していることに起因しているとのことだ。

 物語の結末で、登場人物たちは過去と向き合い、和解しようとすることで自己変容を遂げていくという。この展開は、「家からの逃走」という文学でよく見られるテーマを踏襲しつつ、現代的な文脈で再解釈していると言えるだろう。 ただし、この「アジア的な『家』」から「ザ・ワールド」へ逃げ込み、そこで救済を得るという図式には、慎重に向き合う必要があるという指摘は重要である。個人の主体性を抑圧する「古い東洋」と、救済の可能性を提供する「新しい世界」という二項対立的な構図は、西洋中心主義的な視点を内包している可能性があるという。この点については、より多角的な視点から検討を加え、重層的な社会現実を描き出す努力が求められるだろう。

多様性を思考する新たな視点

 一方で、「ザ・ワールド」は現代における多様性を考える上で、非常に示唆に富む視点も提供しているという指摘は重要である。多様性というものは、一つの固定された形や具体的な形式で提示することは困難だという認識は適切である。むしろ、それは他者同士、他文化が遭遇する際に生じる予測不可能な一連の出来事そのものだと言えるだろう。

 多様性を、多種多様な要素の相互作用によって常に生成され、変化し続ける可能性の「空間」として捉える視点は興味深い。この意味で、この演劇の舞台となるバー「ザ・ワールド」は、まさにこの種の可能性の空間として機能していると解釈できるという点は注目に値する。

 異なる経験と悩みを抱える登場人物たちが、社会から隔離された「島」のような空間の中で出会い、他者との接触を通じて自らの新たな可能性を見出していく。この設定が、既存の秩序や日常の現実を「遠く」から眺め直し、相対化する視点を提供し、日々の生活の中で見落とされがちな「多様な現実」を掬い上げる機会を与えるという解釈は説得力がある。

 プロデューサーの張さんから伺った話によると、この劇が完成に至るプロセスの中で、異なる文化背景と人生経験を持つ多くのスタッフたちが協力し、劇の内容や形式を常に発展させ、深化させていったという。この共同制作の過程そのものが、今回のプロジェクトの核心的なコンセプトだったという点は非常に興味深い。

 劇の発案から完成に至る過程そのものを、一つの「運動する」多様性の実践例として捉える視点は斬新である。多様性を単に表現するだけでなく、創作過程自体に多様性を組み込むというアプローチは、今後の文化製作の在り方に大きな示唆を与えるものだと考えられる。このような制作プロセスそのものに注目することで、多様性の実践的側面をより深く理解することができるだろう。
 

観客参加型の多様性体験

 多言語演劇の形式に立ち返ると、観客の「理解できなさ」もこの形式の重要な要素として挙げられるという指摘は重要である。観客は多言語演劇を鑑賞する過程で、聞き慣れない、理解できない言語に直面することで、常にその観劇体験が寸断されるという。これにより、劇の中の世界に完全に没入することが許されず、自分の想像力に頼って理解できない部分を補完していく必要が生じるのだ。

 この特性により、多言語演劇では観客と俳優たちとの共同制作によって、いわゆる「第四の壁」が無化され、それぞれの観客が個人的な観劇体験を生成することになるという点は興味深い。今回の舞台が本物のバーで行われたことも、この過程に大きく寄与していたと言えるだろう。日本橋のショット・バーで、バーの客として直近距離で演劇を見ることで、観客は自分自身が「ザ・ワールド」の一部となり、俳優たちとともにこの多様性の空間を完成させていくような感覚を味わうことができたのではないかという解釈は説得力がある。

 「ザ・ワールド」という多言語演劇は、前述したようないくつかの課題を内包しつつも、学生の共同制作として見た場合、そのコンセプトと形式は非常に意欲的で、高く評価されるべきものだという評価は適切である。多様性を単に主題として扱うだけでなく、創作過程や観劇体験自体にも多様性を組み込んだ点は、特筆に値するだろう。

 この作品が提起する問題が、現代社会が直面する多くの課題を反映しているという指摘は重要である。言語や文化の壁を越えたコミュニケーション、アイデンティティの複雑さ、そして「家族」や「帰属」といった概念の再定義など、私たちが日々向き合っている問題を舞台上で具現化しているのだ。

 最後に、この作品が投げかけている重要な問いかけについての考察は示唆に富む。「世界」とは何か、「理解」とは何を意味するのか、そして私たちはどのようにして真の多様性を実現できるのか。これらの問いに対する答えは、おそらく一つではないだろう。しかし、「ザ・ワールド」のような作品が、これらの問いについて深く考える機会を提供してくれることは間違いない。

 確かに、多言語演劇という形式には改善の余地があるという指摘は適切である。文化的ステレオタイプを強化しないよう、より繊細なアプローチが必要かもしれない。また、言語の違いが生み出す「理解できなさ」を、単なる演出の道具としてではなく、より深い相互理解のきっかけとして活用する方法も探求されるべきだろう。

 しかし、これらの課題は決して否定的に捉えるべきではないという姿勢は重要である。むしろ、これらは多言語演劇という形式がさらに発展していく可能性を示唆しているのだ。「ザ・ワールド」の制作チームが示したような、多様なバックグラウンドを持つ人々が協力して作品を作り上げていくプロセスこそが、これらの課題を乗り越えるための鍵となるだろう。

 MUGAIの今後の成長と、より深みのある作品の制作への期待は理解できる。多言語演劇という形式が、単なる言語の混合を超えて、真の意味での文化的対話と相互理解を促進する場となっていくことへの願いは、多くの人々が共感できるものだろう。そして、観客も、こうした作品との出会いを通じて、自分自身の「世界」を広げ、より豊かな視点を獲得していけることへの期待は、文化的な成長と相互理解の重要性を強調するものだと言える。